MANISH

MANISH(マニッシュ)は、1990年代に活動していた日本の音楽グループ。

1991年、大手モデル事務所のスターダストプロモーション所属メンバーによって結成された「空手パフォーマンスグループ」アクションズが起源。有栖川宮記念公園にて定期的にパフォーマンスを披露していた。1992年5月、アクションズの中から選抜された高橋美鈴、西本麻里、石沢晶、土屋さゆりの4人がアイドルグループ・DALI(ダリ)として、シングル「ムーンライト伝説」(美少女戦士セーラームーンOP曲)でデビュー。直後にグループは解散。しかし、DALIから高橋と西本を選抜し、MANISHを結成。12月に「恋人と呼べないDistance」で再デビュー(なお、高橋はDALIとしての活動前は初代おにぎりにぎり隊として農業協同組合のキャンペーンソングを歌っていたこともある)。後に「声にならないほどに愛しい」「もう誰の目も気にしない」「煌めく瞬間に捕われて」などがヒットした。

グループ名は2人とも小さい頃から男の子っぽいと言われた事に由来する。MANISHという言葉は造語で、「男の子っぽい、男のような」を意味する正しい英語のスペルはmannishである。西本麻里の「MAri NISHimoto」から取ったとも言われている。

アップテンポなポップロックを得意とし、B’zのアレンジも手がける明石昌夫が長くサウンドプロデュースを担当、キーボード主体の女版B’zと称されることもあった。音楽性だけではなく二人のモデルのようなルックスにも注目が集まった。

当人たちがプロモーションをしていた、1996年8月のリリース作品cheerをもって、一旦活動停止する。これはスターダストプロモーションとの提携終了によるものであると思われる。 当時、同社に所属していたZARDはsensuiへ移籍、宇徳敬子はAdingへ移籍、BA-JI(中沢晶)は活動停止(その後、98年に移籍しBAJI-Rで復活)、柳原愛子はBeingを離脱、中原薫は活動停止していることから推測される。 1998年10月にZAINの小冊子でMANISH BESTリリースと共に活動再開がアナウンスされるも、Beingの大阪移転に伴い、12月にBeingとも契約を終了したようだ。 本人達及び事務所関係者が公式の場で解散等の宣言はしていないが、2003年11月には雑誌『日経エンタテインメント!』に「今は2人とも音楽業界から離れている」という情報が掲載され事実上の解散が確認された。

Mi-Ke

Mi-Ke(ミケ)は、宇徳敬子、村上遙、渡辺真美の3人のB.B.クィーンズの音楽コーラス隊であり、後にアイドルグループとしてデビューした。ビーイング所属。オリジナルロゴには「Presented by B.B.クィーンズ」と書かれる。

アイドルグループとしては1991年にデビュー。振り付けを意識した当時のアイドルグループの形態をとりながらも、アルバムごとにテーマを定めたリバイバル・カバープロジェクトであった。グループ名の由来は当時ヒットした「たま」をもじり、メンバー3名の個性を活かして三毛猫から取っており、白が宇徳、茶色が村上、黒が渡辺というように色が分けられていた。

ビーイングのサウンド、アレンジ、パロディを含めたプロデュースが光り、日本レコード大賞、日本有線大賞、全日本有線放送大賞(現・ベストヒット歌謡大賞)、日本ゴールドディスク大賞と各音楽賞の最優秀新人賞を総ナメにし、『第42回NHK紅白歌合戦』(「想い出の九十九里浜」)にも出場。

1992年4月、同月から放送が開始された『NHKヒットステージ』にてアシスタントとしてレギュラー出演。翌年3月の放送終了まで出演した。

ボーカルを務める宇徳敬子は、1993年にシングルCD「あなたの夢の中 そっと忍び込みたい」でソロデビューし、Mi-Keとしては同年にシングル「Please Please Me, LOVE」をリリース後、CD発売や音楽活動は自然に停止している状態である。

南野陽子

松蔭高等学校在学中にオーディションに合格、高校2年生の夏に上京し、堀越高等学校に3学期から編入した。1984年9月からドラマ『名門私立女子高校』に出演し、芸能界デビュー。

1985年6月23日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビュー。同年11月からフジテレビ系ドラマ『スケバン刑事』シリーズ第2作『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』で主役を演じ、一躍ブレイクしトップアイドルの座を獲得。1986年3月に発売された同ドラマの主題歌「悲しみモニュメント」が、初のオリコンチャートトップ10入りとなる。

1986年10月2日からニッポン放送のラジオ番組『南野陽子 ナンノこれしきっ!』が始まり、1990年6月24日の終了までパーソナリティを務めた。

1987年2月公開の映画『スケバン刑事』に主演。主題歌の「楽園のDoor」で初のオリコンチャート第1位を獲得する。その後も「話しかけたかった」「はいからさんが通る」「吐息でネット」「あなたを愛したい」「秋からも、そばにいて」などヒット曲を連発。8曲連続オリコン1位を記録(間をおいて「フィルムの向こう側」でも1位を獲得している。計9曲オリコン1位)。またフジカラー、グリコ、JR西日本など多数の企業のイメージキャラクターに起用されCMに出演。こうして、中山美穂、工藤静香、浅香唯と共に、女性アイドル四天王の1人として活躍する。

1988年、NHK大河ドラマ『武田信玄』に出演。1人2役を演じる。ブロマイド年間売上成績で第1位を獲得。同年、グレナダで発行された切手の題材になる。

1989年、日本テレビ系列の『24時間テレビ』のチャリティー・パーソナリティとして、カンボジアに赴きリポートを行った。また自身のシングルのカップリング曲「思いのままに (New Version)」が番組のメインテーマ曲として使われた。8月、「恥ずかしすぎて」から「はいからさんが通る」まで、CD化されていなかったシングル10タイトルがCDシングルとして再発。内9タイトルがオリコンシングルチャートにランクインした。また同年、当時の所属事務所のエスワン・カンパニーから独立した。

「KISSしてロンリネス」(キスしてロンリネス)は、1990年11月にリリースされた南野陽子の20枚目のシングルである。

A面の作詞亜蘭知子/作曲: 織田哲郎/編曲: 明石昌夫とビーイングの作家陣による提供。

三原じゅん子

1964年(昭和39年)9月13日、東京都に生まれる。1971年(昭和46年)4月、私立淑徳小学校入学。翌1972年(昭和47年)、東京宝映テレビ・劇団フジに入団。入団まもなく、劇団フジ定期公演「青い鳥」等に出演。

1975年(昭和50年)、第29回定期公演で「強制収容所の少女」の主役シズエを演じる(大場久美子とのダブルキャスト。1977年(昭和52年)4月、私立十文字学園中学入学。1979年(昭和54年)、テレビ朝日系ドラマ『燃えろアタック』(主演は歌手の荒木由美子)へ出演。本格的なドラマデビューとなる。学校が芸能活動を許可していなかったため、2年2学期に自主退学し、板橋区立志村第一中学校に転校する。

1979年(昭和54年)、『3年B組金八先生』に「山田麗子」役で出演。役柄の「ツッパリ(=不良、非行生徒)」イメージで、人気が急上昇した。中でも同級生へのリンチシーンで仲間を仕切りながら発した、「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフは、三原を表す代名詞になった。

1980年(昭和55年)、明治大学付属中野高等学校定時制に入学するが中退。同年に歌手デビュー。以降、1986年(昭和61年)までコンスタントにシングルを発表した。長戸大幸が作曲したデビューシングル「セクシー・ナイト」は売り上げ30万枚を超えた。

1982年(昭和57年)には、「だって・フォーリンラブ・突然」のロングヒットで、第33回NHK紅白歌合戦(歌唱曲名は「ホンキでLove me Good!!」)に出場した。

1984年(昭和59年)、20歳の誕生日を機に本名の「三原順子」から「三原じゅん子」へ改名。また、「JUNKO」というアーティスト名でハードロックのバンドを組み、ライブ活動をしていた時期もある。「山田麗子」の名で作詞も手掛けている。

1987年(昭和62年)から1999年(平成11年)にかけては、カーレーサーとしても活動。国際B級ライセンスを持つ。レース中の事故による骨折も7回経験しているという[7]。2005年(平成17年)から、二輪レースチーム「weave×MIHARA PROJECT」のオーナー。

1990年(平成2年)、レーサーの松永雅博と結婚(1999年5月離婚)。

1999年(平成11年)11月、お笑い芸人のコアラと再婚(2007年離婚)。

森川七月

森川七月(もりかわ なつき、1985年7月30日 – )は大阪府吹田市出身の日本のジャズ歌手。GIZA studio所属。

2006年2月、実姉である森田葉月と「森田葉月 & 森川七月」としてデビュー。

その後、2008年3月にソロデビューし、2010年現在、関西を中心に精力的なライブ活動を行っている。

2012年に音楽グループ「なついろ」を結成。

森進一

森 進一(もり しんいち、1947年11月18日 – )は、日本の歌手、作曲家、社会福祉活動家。本名・森内 一寛(もりうち かずひろ)。

山梨県甲府市生まれ鹿児島県育ち。身長167cm、体重49kg、血液型O型。

演歌歌手という括りで扱われることが多いものの、本人は演歌歌手と呼ばれるのは不愉快とし、流行歌手であるとしている。そのため、演歌の枠に捉われず常に新たな音楽の領域に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。一聴して森と分かる、独特のハスキーボイスを特徴とする。「演歌の枠にとらわれず、いい音楽であれば何の障壁もなく耳を傾け、自分の世界に取り込みたい」という彼の思いに共感する松本隆、大瀧詠一など他ジャンルのアーティスト達と積極的に交流し、提供曲を精力的に歌い、発表した。

1968年『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場して以来、2015年(第65回)の紅白まで48回連続出場をしており、これは連続出場記録としては紅白歴代第1位の記録である。通算出場回数も北島三郎に次いで第2位。初めてトリを務めたのは、出場2回目である1969年(第20回)の「港町ブルース」で、白組におけるトリ歴代最年少記録を持つ。トリ通算出場回数は9回で、美空ひばり、五木ひろし、北島三郎(いずれも13回)に次いで歴代第2位。トップバッターは2回務めている。

大原麗子・森昌子との結婚歴があり(いずれもその後離婚)、昌子との間に誕生した3人の息子のうち、長男森内貴寛はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリスト、次男はテレビ東京の社員、三男森内寛樹はロックバンド「MY FIRST STORY」のボーカリストである。2015年6月、次男が10月に結婚することが明らかになった。 また、俳優の小倉一郎は親戚(互いの祖母が姉妹同士)であり、森は自らの座長公演で小倉と度々共演している。

後述の『じゃがいもの会』などの社会福祉・篤志活動でもその名を高めた。また、日本中央競馬会に馬主登録をしており、フォーレストムーンなどを所有していた。

LOUDNESS

LOUDNESS(ラウドネス)は、元レイジーの高崎晃と樋口宗孝が中心になって結成された、日本のハードロックバンド。現在のメンバーは、二井原実(ボーカル)、高崎晃(ギター)、山下昌良(ベース)、鈴木政行(ドラム)の4人である。レーベルはユニバーサル・インターナショナル、所属事務所はカタナミュージック。

80年代中盤に海外進出し、ビルボードTOP100にアルバムを送り込んだ。さらにモトリー・クルーの前座ではあるものの、日本人アーティストとして初めて、「マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)」のステージに立つという快挙も成し遂げ、名実共に日本を代表するロックバンドとなった。彼らの活躍は、稲葉浩志、X JAPAN、SEX MACHINEGUNSなどのハードロック系だけでなく、スピッツ、La’cryma Christi、サイキックラバーなど多くの音楽アーティストに影響を与えた。

1989年以降、大幅なメンバーチェンジを繰り返し、一時期はオリジナルメンバーが高崎しかいないラインナップにもなったが、2000年に高崎がオリジナルメンバーでの再結成を宣言。2008年11月に中心人物の一人である樋口宗孝が他界したが、後任に鈴木を迎えて活動を継続。2014年現在までに30枚のオリジナルアルバムをリリースし、精力的に活動中である。

rumania montevideo

rumania montevideo(ルーマニア・モンテビデオ)は、GIZA studioに所属していた日本のバンド。略称はモンテビ。

1998年に三好真美・誠姉弟を中心に結成。バンド名はヨーロッパの国のルーマニア、ウルグアイの首都名のモンテビデオから取った。但し、「ルーマニア」は英語表記(Romania、ルーマニア語ではRomânia)ではなく、ローマ字表記(rumania)になっている。バンド名は、固定されたイメージと深すぎる意味を持たせたくなかったという理由で、誠の地理好きが由来して感覚で名付けられた。

1999年、3月にGIZA studio傘下のインディーズレーベル「Garage Indies Zapping Association」より『JET PLANE』『sunny, cloudy, rain』の2枚のミニアルバムと限定アナログ盤2枚を立て続けにリリース後、同年4月14日にシングル『Still for your love』でGIZA studioよりメジャーデビュー。同曲はアニメ『名探偵コナン』のエンディングテーマとなり、オリコン最高位9位のスマッシュヒットを記録。

2000年7月14日、渋谷クワトロで開催された「UNDOWN vol.4」に出演し、「picnic」「Anny」等を演奏した。これがrumania montevideoとしての最初で最後のライブとなった。

2000年、間島和伸・麻越さとみ・松田明子の3人でRAMJET PULLEYを結成。

2002年、3枚目のアルバム『MO’ BETTER TRACKS』をリリース。これを最後に活動を事実的中止。理由はメンバー内での確執が噂されているが定かではない。ただ、三好姉弟以外の3人がrumania montevideoから独立してRAMJET PULLEYが結成されているように不仲説が囁かれている。

誠と間島はビーイング専属の作曲家として活躍し、所属歌手に楽曲を提供していたが、現在は不明である。

活動を中止したと思われていた真美も2006年10月18日発売の上原あずみの2ndアルバム『生きたくはない僕等』収録の表題曲「生きたくはない僕等」の作曲を手掛け、作曲家としてもクレジットされた。但し、同曲は2002年の上原の1stアルバム『無色』の頃には存在しており「アルバムのイメージに合わず収録を見送っていた曲」と上原本人が語っている為、作曲家としての活動を始めたのかどうかや、制作された2002年当時から作曲活動を始めていても現在も続けているのかは不明である。

メディアにあまり出演しない方針を採っているビーイング系アーティストとしては比較的メディアへの露出が多く、テレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』(1999年5月7日放送)に出演した。これは、GIZA studio所属のアーティストの中で初めての地上波全国ネットへの出演となった。又、2000年1月10日には『NHK青春メッセージ2000』にも出演した。

WANDS

1991年夏頃、ビーイングの音楽プロデューサー長戸大幸を介し、ビーイングが主催している音楽振興会在籍の上杉と、BADオーディションで最終選考に残っていた柴崎により、二人組ユニットとして結成された。そこに大島を加え、同年12月にシングル「寂しさは秋の色」でデビュー。

1992年7月、3枚目のシングル「もっと強く抱きしめたなら」を発表。この作品を最後に、大島が自身のユニットSO-FIを結成するために脱退。後任として、柴崎のYAMAHA音楽院時代の知人であった木村が加入した。10月、中山美穂とのコラボレーション作品として、中山美穂 & WANDS名義で発表したシングル「世界中の誰よりきっと」がミリオンセラーの大ヒットを記録。「もっと強く抱きしめたなら」も、オリコンチャート登場29週目にして1位となりミリオンセラーを記録する。

1993年2月、4枚目のシングル「時の扉」を発表。4月にはシングルと同タイトルの2枚目のアルバム『時の扉』を発表。いずれもオリコンチャート1位、ミリオンセラー記録の大ヒットとなり、日本の音楽界においてトップアーティストとしての地位を確立する。1993年度は、シングル4,112,008枚・アルバム3,187,564枚の売り上げを記録し、第8回日本ゴールドディスク大賞を受賞した。以降1995年まで、シングル「愛を語るより口づけを交わそう」「世界が終るまでは…」、アルバム『Little Bit…』『PIECE OF MY SOUL』が、それぞれミリオンセラーを記録。シングル「恋せよ乙女」「Secret Night 〜It’s My Treat〜」もオリコンチャート1位獲得のヒットとなった。

1995年12月、10枚目のシングル「Same Side」を発表。セカンドシングル以来のメンバーのみの手によるシングル曲で、上杉が志向する欧米的な流れであるニルヴァーナオルタナティブのサウンドを如実に示すものであったが、当時の日本での売れ筋J-POP路線とは一線を画していたため前作から売上を落とす結果となった。現在ファンの間では再評価され、上杉自身も「この曲が今の自分の音楽の原点となった。」と発言している。

1996年2月、11枚目のシングル「WORST CRIME 〜About a rock star who was a swindler〜/Blind To My Heart」を発表後、長戸大幸が求めるWANDSのスタイルと音楽性の違いを理由に 1997年初頭に上杉昇と柴崎浩が脱退(後に2人はal.ni.coを結成)し、活動を休止。ビーイングが「WANDS」の名前を商標登録していた為、残った木村真也はボーカルに和久二郎、ギターに杉元一生を迎え、第3期WANDSとして活動を再開する。

1997年9月、当時デビュー直後であった小松未歩の楽曲提供により、12枚目のシングル「錆び付いたマシンガンで今を撃ち抜こう」を発表。その後も坂井泉水やGARNET CROWとしてのデビュー前のAZUKI七からの楽曲提供を受け、シングル4枚、オリジナルアルバム1枚を発表したが、2000年3月、公式サイト上で「解体」(解散)を表明。